2013年7月



ーー−7/2−ーー モノは人が作る


 
息子は一時期、フィギュア作りに凝っていた。ジャンルは美少女フィギュア。粘土で原型を作り、シリコン樹脂で型を取り、ウレタン樹脂を流し込んでパーツを作る。それを組み立て、彩色を施して出来上がりとなる。

 フィギュア・マニアの大会が、年に何回か開催される。一日限りの来場者が数万人という、門外漢には想像もできない規模のイベントである。そこには、プロからアマまで、多数のフィギュア作家が作品を持ち込み、販売をする。息子もそのようなイベントに、何度か出品したことがある。

 あるイベントでのこと。たまたま息子は用事でブースを離れ、同行した友人が店番をしていた。一人の外国人が立ち止り、展示品に目を止めた。熱心に見るので、興味を抱いたらしい。そしてこう言ったとか、「この作品が気に入った。どんな人が作ったのか知りたい。製作者と会いたい」

 一般の来場者は、ほとんどがブースの前を通り過ぎるだけ。まれに立ち寄る人がいても、作品を見るだけで無言。さらにまれに、買ってくれる人がいても、お金を差し出すだけ。作家どうしは、けっこう交流があるそうだが、一般の人は、作品の向こうにあるものに関心が無い。

 その外国人がどのような気持ちだったのかは、分からない。想像だが、作品のみならず、創作全体に関心を持ち、したがってその生みの親たる製作者と会いたいと思ったのだろう。

作品は目の前の現物しかないが、作者は創造の源そのものである。

 一般的に日本人は、作品や仕事というもの、つまり結果として有るものと、それを生み出した作者、あるいは過程といった上流にあるものを、切り離して見る傾向があるように思う。極端に言えば、作品を素晴らしいと感じても、その作者はどうでもよい。誰がどのような動機で作ったかは関係ない。品物を見て気に入れば、それだけでよい。むしろ、その背景には、タッチしない方が良い、といった感じか。

 無名の作家が作ったモノ、または無口な職人が作ったモノでも、品物が良ければそれでOKという傾向があると思う。逆に、無名性の方に価値を置く風潮もある。その割には、有名な作家の作品は、品質にかかわらずもてはやされるという傾向もあるが。

 品物には、必ず作った人がいる。小さくて安価な品物、たとえば輪ゴムや画鋲だって、人が作っているのだ。機械化された工場で製作されてはいても、機械がゼロから作り出す事はありえない。人の判断や思いや工夫や努力があって初めて生み出されるものだと言える。

 品物は人が作り出す。だから、気に入った品物を愛して使うということは、それを作った人に思いを寄せることにつながる。モノを愛するなどというと、物欲の現れのようで、人間らしさから離れていくように感じがちだが、そうではない。モノを愛するという事は、それを作り出した人を愛するという事だ。逆にモノを粗末にするという事は、人を軽んじるということだと言える。

 現代は、激安ショップや価格破壊などが一般的になり、金銭的な面だけがクローズアップされがちだ。それだけで良いのかと思う。我が国は、モノ作り大国などといわれてきたが、モノ作りの大元である人を大切にしなければ、本末転倒だと思う。優れたモノを生み出す社会は、人を愛しむ社会であり、人と人との良好な関係によって、良い品物が生まれるのだ。

 画鋲でも輪ゴムでも、きちんと作られたモノは、使っていて気持ちが良い。それに引き替え、一見便利な家電製品でも、その設計思想に首をかしげたくなるような物もある。能率効率と金銭感覚ばかりを優先した商品は、殺伐として味気無い。生活の中で使う道具は、できれば製作者の思いが込められたモノを、愛情を持って使いたいものである。

 工場で量産される製品でさえ、品物には生産に携わった人の心が宿る。ましてや、製作者の顔が見える品物には、その人柄さえ現れる。かく言う私も、作家から購入した陶器、ガラス、木の器や道具を日常的に使っている。使うたびに、作った人の面影が目に浮かぶ。そして、かの人は、今でも元気に製作を続けているのだろう、などと思いをはせる。それは、道具を使う楽しさを倍増させる。そして作った人の思い出は、作品を安心して使う拠り所となり、その品質を保証する証しともなるのだ。

 



ーーー7/9−−− ダイヤモンド系の威力


 木工家にとって、刃物を研ぐのは仕事の一部である。ノミ、鉋、小刀といった刃物を、しょっちゅう研ぐ。硬い広葉樹を使う木工では、刃物の切れ味が悪ければ、加工の能率が悪くなるなどという以前に、加工そのものが不可能になる。どのような刃物でも、きちんと研げば切れ味は戻る。研ぎが上手く出来る事は、木工家の生命線である。

 仕事以外の刃物も研ぐ。台所の包丁を始め、草刈鎌や植木バサミも研ぐ。包丁は、仕事で使う砥石で研ぐが、庭仕事の刃物はそうは行かない。台に固定した砥石では使いにくいからだ。専用の砥石を手に握って、刃物を擦るようにして研ぐ。草刈鎌用には、小さいサイズの専用砥石が売られている。あるいは、割れて小さくなった砥石を流用したりする。

 庭仕事の刃物は、傷みが激しいので、研ぐのが一苦労である。左手で刃物を固定し、右手に持った砥石で研ぐのだが、両手で刃物を保持する固定砥石の砥ぎと比べて、力が弱い。従って、時間をかけても、なかなか研ぎ上がらない。

 この時期になると、雑草が茂ってくる。先日、鎌を研いだ。従来通り、割れ砥石を使ったが、能率が悪くて閉口した。そうこうしているうちに、ダイヤモンドヤスリを思い出した。昔買ったものが一本、工房の棚に転がっている。買ったものの、有効な使い方をした思い出が無いシロモノである。それを取り出して、鎌を研いでみた。

 これは正解だった。凄い研磨力である。あっと言う間に研ぎ上がった。その後、仕上げ砥石でなぞったら、ピカピカになった。空中で鎌を払って、草の先端が切れるほどの切れ味になった。ダイヤモンドヤスリの効果に、改めて驚いた。

 さて、仕事場には、替刃式のノコギリがある。組手加工などの細かい仕事には、上物のノコギリを使うが、荒い仕事、あるいは庭木の切断などには、気兼ねなく使える替刃式が便利だ。もう何年も前に買ったものなので、だいぶ切れ味が落ちている。二ヶ月ほど前に、それを目立てヤスリで研いでみた。目立てヤスリというのは、ノコギリの刃の目立て(研ぎ)専用のヤスリである。そのヤスリも、だいぶ前に購入したものだが、本来の目的に使われる事も無く、工房の棚に転がっていた。

 一応、切れ味は改善されたように感じた。しかし、完全に研ぎ上がった刃物を使う時の、喜ばしい手応えは無かった。その後、たまたまネットで目にした情報に、替刃式のノコギリは、刃に硬化加工を施してあるので研ぎ難いとあった。

 包丁などでもそうだが、最近はむやみに硬い刃物がある。そういう刃物は、購入時点の切れ味は長く持続するが、使い込んで切れ味が落ちると、研ぐのが大変である。家庭用の包丁は、自分で研ぐ人は現在では少ないだろうから、硬くて長切れするものが重宝がられているのかも知れない。同様の発想で、替刃式のノコギリも、刃を硬くしてあるのだろう。木工家でも板前でも、自分で刃物を研ぐ職人にとっては、そのような硬い刃物は始末が悪い。刃物というものは、切れ味の良さもさることながら、研ぎやすい事も大切な要件なのである。

 先日ホームセンターへ行ったとき、たまたま工具の棚にダイヤモンド目立てヤスリなるものを発見した。こんな道具にまでダイヤモンドが進出しているのに驚いた。従来のノコギリなら、従来の目立てヤスリで十分なはずだから、このダイヤモンド・ヤスリの目的は替刃式ノコギリの目立てか? ともかく、あまり高くないものを一本購入した。

 工房へ戻って早速使ってみた。切削力が違うのは、一目瞭然だった。研ぎ上がった替刃式ノコギリを、試しに使ってみたら、切れ味は明らかに向上していた。新品ほどではないにしろ、これなら硬い広葉樹でも、しっかり食い込んで切れる。

 替刃式ノコギリは、切れ味が落ちたら刃を交換するのが本来の使い方。目立ての費用や時間を省く目的で作られている。それを研ぐと言うのは、本末転倒のように感じるかも知れない。しかし、自分でやれるなら、これも悪くない。高級なノコギリは、不用意な事をして壊してしまう恐れがあるので、自分では目立てをしない。切れ味が落ちたら、専門の業者に出す。その点、荒い作業に使う替刃式ノコギリなら、気楽に自分で研げる。失敗したら、交換すれば良いだけだ。

 刃物は、研いで切れ味が戻ると、実に気分が良いものである。その楽しさを味わえるなら、少々の時間を費やしても、損をした気持ちにはならない。










ーーー7/16−−− 地元開催の展示会


 昨年に続いて、地元安曇野で展示会を行った。今回は、新作の数が多く、自分なりに充実した展示になった。 二回目なので、運営方法に関しても、いささかの工夫を盛り込んだ。

 ギャラリーは、林の中の一本道に面しているが、その先には評判の良い喫茶店があり、出入りする客がしょっちゅうギャラリーの前を通る。昨年はそれを羨ましく眺めていただけだったが、今回はその客を導入しようと考えた。道路ぎわに、案内の看板を出したのである。その作戦は効を奏し、何組ものお客様が立ち寄って下さった。こんなことは、当然するべきだ、と言われそうだが、場の状況と言うものは、適切な対応を見るまでに、ある程度の時間を要することもある。

 前回は、未知の来場者をあまり期待していなかった。そこで、顔馴染みの方に対する接待のために、展示スペースにテーブルを持ち込んだ。今回はそれを廃止した。たまたま空いた時間に、顔馴染の方が来た時は、バック・スペースでお茶を出した。そのようにメリハリを付けたので、接客がスムーズになった。また展示品を制限したので、スペースに余裕が生まれ、雰囲気が落ち着いた。

 来場者の方々のお話も興味深く聞かせて頂いた。

 あるお客様は、新作の椅子(風神、雷神)を見て、「これはもう芸術品だから、実際に使うのはもったいない」と言われた。かなりハイレベルな生活をされている方なので、その言葉には驚いた。

 また別の方は、「価格も高いことだし、雑に使う事は出来ないが、実際に生活の中で使って、良さを実感できれば理想的だと思う」とおっしゃった。

 わざわざ四国から来られた方もいた。私のブログの読者で、ブログの画像で見た椅子の形に強い関心を持ち、ぜひとも現物を見たいと思って来たとのことだった。「木材という自然素材は、真っ直ぐな形の部材の組み合わせで使うのが一般的だと思います。その方が強度的に有利だし、材の無駄も少ないでしょう。大竹さんの作品は、その逆を行っているようで、ブログの画像で見た時は不思議な印象を受けました。しかしその普通と違うところが、一種の緊張感のようなものを生み出しているのかも知れません。目の前で見ると、その美しさが良く分かりました」と言われた。

 私の家具をお使い頂いているお客様も、何人か来られた。いずれの方も、使い心地が良く、丈夫で、とても気に入っているとの感想を述べて下さった。そういう話を聞くと、嫁に出した娘が、先方の家族から褒められたような、嬉しい気持ちになる。

 毎度同じような事を言うが、展示会というものは単なる物品販売会ではなく、来場者との交流が大きな意味を持つ。そこで感じ、得られたものが、次の製作へのエネルギーとなる。その意味では、今回の展示会も、十分な手応えがあったと言える。




ーーー7/23−−− 驚くべき開き直り


 会社勤めをしていた頃に経験した、驚くべき開き直りの話。

 会社勤めの最後の時期に、インドのガス・パイプライン・コンプレッサー・ステーションのプロジェクトに関わっていた。そこに納めるガスタービン発電機を私が担当していた。2000KW程度のものを十台ほど、米国のメーカーに発注した。金額としては20億円くらいだったと記憶しているが、そのメーカーにとっては大した商いではない。軍関係で年間1000台以上の受注があるからだ。

 ガスタービンが出来上がり、性能試験をした。そうしたら、効率が契約書に記載された保証値を下回った。これは、プラントエンジニアリング業界では一大事件である。当然ながら、不足した効率の分を、所定の計算式で金額に換算して、メーカーにペナルティーを要求する。一方で、このガスタービンを納めるプラント全体の効率に影響が生じ、プラントのオーナーに対してペナルティーを支払わなければならない。これはランニングコストがらみになるので、莫大な金額になる。たった一つの機器の効率が、1パーセントの何分の一か下回っただけで、そのプロジェクトが大赤字に転落する恐れもあるのだ。

 会社は、メーカーに対して、効率不足の事実を認め、契約書に従った対応をするよう、文書で要求した。しばらくするとメーカーから返事が来た。契約書に記載してあった数値は間違い(ヒューマン・エラー)だったというのである。そして、どのような原因で間違ったのかという言い訳が書いてあった。さらに、正しく計算し直したらこういう値になったという数値が記載されていた。もちろん前回の値よりも低い値である。

 我々は、予期せぬ返答に接して驚いた。すぐに折り返し、次のようなクレームを送った。「貴社の内部の事情はどうであれ、保証値を達成できなかった事実を認め、ペナルティーを支払うべし」

 するとまた、返事が来た。それが、さらに驚くべき内容だった。「既に述べたとおり、契約書には間違った数値が記載されていた。ところがあなた方は、その間違った数値を元にして議論をしようとする。当方は、それには応じられない。間違った事を正しい事として扱うのは、人間の尊厳にかけてできないのだ」

 冗談だか本気だかわからないような主張である。欧米社会では、こんな事が通用するのだろうか?、とも思った。ともかく相手は一歩も引かなかったのである。

 この問題は、結局国際裁判所に持ち込まれたらしいが、その後私は会社を辞めたので、どのような結末になったかは知らない。

 


ーーー7/30−−− デジタル一眼レフの効果


 息子が、デジタル一眼レフを貸してくれた。それを使って、作品の撮影を行った。これまでは、コンパクト・デジカメで撮っていた。それなりに工夫をして、良い写真が撮れていたつもりだった。しかし、デジタル一眼レフを使ってみると、性能の差が歴然であった。

 高校生の頃、一眼レフを手に入れた。ミノルタSRT-101という機種で、その時代を代表するカメラの一つであった。大学生になって、山岳部の山行にそのカメラを持参して、ずいぶん山の写真を撮った。使ったのは全てモノクロ・フィルム。理科系の学生は、実験などで写真を使うので、現像・焼き付けは、言わば必須科目である。学科に暗室が有り、技官がやり方を教えてくれた。その暗室に潜り込んで、山の写真も引き延ばした。

 山の写真は難しい。肉眼でははっきりと見えている景色でも、写真に撮ると曖昧な画像になってしまう。それを改善するために、いろいろな努力をした。フィルムは、なるべく硬調なものを使う。印画紙も、コントラストが強いものを選ぶ。現像液の温度によっても、仕上がりが違う。場合によっては、覆い焼きの技法も使う。いろいろ試行錯誤をして、なんとか見られるような焼き付けをし、パネルに貼って楽しんだ。出来上がった作品のうちの二枚は、今でも工房の壁に飾ってある。

 社会人になってからも、山に登るたびに写真を撮った。その頃になると、カラーが主流となり、もはやモノクロ・フィルムは使わなかった。カラー写真は、撮影をした後にはすることが無い。プリントは写真屋に頼むしかなく、自分で手を加える余地は無い。トリミングすら、出来ないのだ。私の写真の楽しみは、撮る事だけになってしまった。しかも諧調豊かなモノクロ写真と比べると、写真屋の機械にお任せのカラー写真は、映像としての面白味がない。そんな状況から、撮るのはもっぱら行動中のスナップになり、風景写真を撮って残そうという意欲は無くなった。

 木工家具製作の仕事に入ると、作品の撮影という新たな課題が生まれた。プロのカメラマンに撮影を頼むと、金がかかるし、スタジオに持ち込む手間も要る。そこで、工房で撮ることにした。町の写真店でバックグラウンド・ロールペーパーを注文し、それを工房の天井に据えた。それをスルスルと引き下ろして、床に展開すれば、にわかスタジオの出来上がりである。フィルムは、最初のうちはカラー・リバーサル、カラー・ネガ、モノクロの三種類を使った。同じカットを、三種類のフィルムで撮るのである。しかしそれではあまりに面倒なので、その後はリバーサル・フィルム一本に絞る事となった。

 カラー写真だから、撮影後にいじる事は出来ない。だから画像の良し悪しは、構図とライティングで決まる。それなりの工夫は重ねたが、自慢できるようなものはなかなか撮れなかった。それでも、スライド映写で作品紹介をしたり、プリントして写真集にまとめたりして、役に立ったことは間違いない。

 そのうちに、デジカメが登場した。その機能の画期性は、今さら言うまでも無い。フィルムを写真屋に持って行って現像を頼み、現像されたフィルムの中からコマを選んでまたプリントに出すという手間が一切無くなった。リバーサル・フィルムは、ラボに出さなければ現像できないので、日数がかかるし、プリントの値段も高い。そんな悩みも消え去った。費用の心配をせず、心行くまで何枚でも撮影をし、画像は自分でトリミングをし、レタッチソフトで色調やコントラストも変えられる。しかも、画像データをそのままネットで発信できる。デジカメとパソコンさえあれば、個人の自宅の中で、全ての作業が完結する。40年前から写真と関わってきた身にとっては、これは便利を通り越して、少し異常な装置のようにすら感じられる。

 その便利さの恩恵を、十分に味わい尽くした気でいたが、ホームページの作品画像の質が悪いと、以前から息子に言われていた。商品写真なのだから、実物より良く見えるくらいでなければダメだと。そして、何と言っても撮影機材、特にカメラが不十分だとの結論に達した。今年になって息子がデジタル一眼レフを手に入れたので、それを使って撮影をしてみようという事になった。

 コンパクト・デジカメも、デジタル一眼レフも、原理は同じなのだから、大した差は無いのではないかと思っていた。しかしそれは、認識不足であった。レンズでとらえた映像を、デジタル信号に変換するCCDのサイズが大きく違うので、取り込む画像データの量と質が決定的に異なる。しかも、RAW現像というモードがあり、CCDで取り込んだ生の画像データを、専用ソフトで調整することができる。明るさも、コントラストも、色調も、自由自在に調整できるが、その自由度はコンパクト・デジカメの比ではない。上手く処理をすれば、それこそ実物よりも綺麗に見えるくらいの画像になる。

 下の画像。左がコンパクト・デジカメで撮って、画像処理をしたもの。ライティングにも気を使い、けっこうイイ感じに仕上がったと感じていた。右がデジタル一眼レフで撮ってRAW現像したもの。比べてみると、如何だろうか? コンパクト・デジカメの画像は、全体に霞がかかったように不明瞭であり、また木部が暗くつぶれている。レタッチソフトで明るさやコントラストを調整すると、だんだん画像が劣化し、また全体に引きずられて局部の表情が弱まって、インパクトに欠けたものになってしまうのだ。それに対してRAW現像の方は、被写体の質感を保ったまま、調整が可能であり、明瞭な印象の画像になる。

 最近、山に登っても、観光地に行っても、デジタル一眼レフをぶら下げている人を多く見かける。写真マニアにとっては、この一連のデジタル化の流れは、大いに歓迎すべきものなのだろう。また、それまであまり写真撮影に馴染が無かった人にとっても、新たな趣味として身に着ける可能性が増しただろう。それまで「撮るだけ」だった写真の世界が、「撮って、美しく仕上げる」というふうに変ってきた。個人の美意識を盛り込める、創造的な部分が拡大したのだから、愛好家はさらに増えるだろう。もっとも私のようにレトロな世界に慣れ親しんだ者にとっては、あまりに便利、お手軽過ぎて、すぐに飽きてしまうのではないかと危惧するくらいである。

 息子の学生時代の友人は、最近しきりにお見合いをしているという。お見合いに先立って、相手の女性の写真が届くのだが、実際に会ってみると、ほとんどの場合写真の方が綺麗だと。これもデジタル技術のなせる業か。

 写真のみならず、テレビの映像でも、明らかに実物の被写体よりシャープだと感じるものがある。また、意図的に色調を変えて強調するあまり、自然の雰囲気からずれてしまった、わざとらしい映像も見受けられる。こうなると、いったい真実は何処にあるのかという疑問を挟みながら、巷に溢れる映像と接する事になる。



   









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